相変わらずいろいろなことが起こる毎日です。それにしても最近はあまり良いニュースを聞きません。昔からさまざまな犯罪や不可思議な出来事は雑多あったのでしょうが、特にこの頃は、教育者である教師が生徒の盗撮をしたり、大学職員がストーカーの果てに注意した人を逆恨みで殺害したり、親族同士を争わせ、その財産を奪いつくす等々…、人間の変質的な面が強調される事件も多発しています。 「プロ意識」という言葉があります。自分の仕事に誇りを持ち、自分の立場や影響力をわきまえ行動する意識です。今、人間はどのくらいの人がこのプロ意識を持っているでしょうか。多くの人は真面目に仕事をし、生活をしているでしょう。しかし、皆がこのプロ意識を持っているかどうかとなるとちょっと心配になります。多くの人は何となく仕事をしてしまっているだけではないでしょうか。戦後すぐの日本に食料がなく配給であった時代、闇米や食料の闇買いを断固拒否して亡くなった人物が世間に知られているだけで2名いたそうです。一人は教師、一人は判事。その一人、教師はこう言い残しています。「いやしくも教育者たる者、表裏があってはならぬ。どんな苦しくても、国策に従う」そして判事は「経済犯を裁くには、その人たちが罪に落ちる直前の苦しみ、立場に立たないと、正しい裁きは出来ないと思う。これから僕の食事は、必ず配給だけで賄ってくれ」と家人に伝えたと記録されています。当時でもこの行動には賛否両論あったようですが、まさに「プロ意識」という面では、仕事に対して完璧なまでの意思があります。
今の時代も、戦後の時代であっても本当の命を懸けてまで、自分の仕事を貫くことが良いことかどうかは意見の分かれるところですが「自分の仕事に命を懸ける」ことと「自分の仕事柄、悪法でも命を懸ける」ということではまったく意味が異なります。人は自分の仕事に誇りを持つとき、仕事をやり遂げる途中で例え死を迎えたとしても後悔はしないでしょう。しかし「自分の仕事柄、悪法でも命を懸ける」というのは本望でないかも知れません。ですから命を懸けてまで守らなくてはならない悪法が存在する社会はまったく容認できません。本来ならば仕事に誇りを持てる社会を築き上げなければならないでしょう。その最先端にいる政治家は国民のために命を投げ出すくらいのプロ意識を持って欲しいものですが現在はどうでしょう。都合が悪くなれば、病気になりさっさとやめてしまう議員がいたり、首相の座すら簡単に投げ出す政治家の多いこと。家族の気持ちになれば、議員といえども死なれることは困るでしょうが、国民とすれば、そのくらいの覚悟を持って欲しいと思うのは当然でしょう。そうでなければ災害現場で命懸けで救出活動を行うレスキューの方々や危険な現場で仕事をする消防隊員、警察官、自衛官等々、そして経済の最前線で働く方々はやっていられないのが本音だと思います。こんな社会だから、プロ意識が薄れ、本来なら有り得ないような犯罪が起こってしまうのも、誇りを持って仕事が出来ないような社会に問題があるのです。
その意味では、人間の「質」が落ちてきたともいえるでしょう。いつも講座などでお話しておりますが、「社会」というものは「個人が集まってできたもの」です。ですから個人一人ひとりの思いが「社会の意思」を作ります。個人一人ひとりの創造が社会の未来を創ります。物が溢れ、情報が溢れ、ふれあいが減ってゆく中で、一人でも生きていかれるかのような錯覚を起こさせる現代社会。そのような社会の中で、人間は相互の影響力を感じることが少なくなって、自分のやっていることの影響力などを感じられなくなってきています。すなわち感受性の鈍化です。感受性が鈍化するとますます人間相互のコミュニケーションに欠けてゆき、お互いに傷つけ合ってしまうという負のスパイラルに陥ります。ですから社会の雰囲気を変えるためには、個人が変化してゆく他に方法はありません。一人ひとりが人間を見つめ、考え、意見を交換し、修正し、影響し合う社会。すでにこんな基本的なことすらが面倒くさくなっていることが問題なのです。
さて、そのためには何をしたら良いのでしょうか。
人間には重要な二つの「目」があります。もちろん視覚のことではありません。この二つの目とは「目的」と「目標」です。現在の人々にはこの二つの目が薄れつつあることを感じています。この言葉は国語辞典的には似た様な意味になりますが、人生において「目標」は時間的な区切りをもって、具体的に実行する目安、「目的」は人生において自分は何をなすか、という自分への問いかけだと思っています。是非、自分が生きる「目的」は何かを考え、それを実現するための「目標」を持って行動していただきたいと思うのです。何も人生の意義を哲学的に考えなくてはならないという意味ではありませんし、大上段に構える必要はありませんが、自分の仕事や行動が他の人にどんな影響を与え、どのように役立ってゆくのかを意識するだけで「自分」という存在が如何に大切なものであるか感じられることでしょう。単に毎日を何となく過ごしてしまう人と二つの「目」を持っている人。これこそが「人としての質の違い」となるでしょう。また超能力的にみても、それが自らの超能力の発揮にもつながってゆきます。この二つの目を持つことにより、自分の立ち居地が明確になり、相互の影響力を気にかけるようになります。それにより感受性が増し、テレパシーが発達してゆきます。そうすると、更に相互理解が進み、社会が豊かになってゆくということです。人は「目的」と「目標」を持つことにより、質の向上が図れます。そんな質が向上した人が集まったとき、社会の意思ははっきりとし、社会の未来像も明確になってくるでしょう。