争いを避けるための「聞く力」(全編)

 今年のキーワード「展開」が現実味を帯びて世界で顕在化しています。世界情勢は急激に変わって行き、世界を二分していた「共産・社会主義」と「民主主義」というイデオロギーさえも効力を失ってきました。多くの国が「民主主義は理想」と考えてきましたが、インド、インドネシア、タイなどの、今、世界中から注目の的になっているアジア諸国では政権が変わり、単なる民主主義では貧富の差を乗り越えられない状況となり、新しい国の形を模索し始めています。昨年の予測にもありましたように、国家間の枠組みさえも自国の勝手な理屈により変更されるという現実にウクライナはさらされ、とうとう民間の旅客機が撃墜されるという悲劇にまで発展しています。イスラエルとパレスチナは再び戦火にさらされ、収拾の目処さえたちません。日本も集団的自衛権行使が一部であるとはいえ容認されそうです。まだまだ挙げてゆけばきりがないほど、世界では明らかに「新たなる展開」が始まっています。勿論「展開」というのは悪い展開ばかりではありません。大手企業は新たなる大地、アジア大陸に新天地を求め利益を上げ始めていますし、新しいきっかけによって新分野を切り拓くということもあるでしょう。生活にしろ人生にしろ、問題点がある場合には今年は積極的に「新しい展開」をするために知恵を絞る良い時期だとも云えるのです。

 私はむしろこちらの「新しい考え方による、新しい展開」を望んでいるのですが、現実は「展開」が行われるときの不安定さ、すなわち新しいものが動き出すときの旧価値観との摩擦の方が大きくなってしまうのが世の中のようです。今は宇宙的な流れの中でも「大きな進化」が進行し、考え方がじょじょに変わって行く時でもあるのですが、やはりこのような変化が起こるときに、「今までのやり方」と「新しい考え方」の間には摩擦が生まれ、争いが生じてしまいます。

 「新しい展開の時」と「争いの時」というのは残念乍ら重なってしまうことが多いようです。

 ここで「争い」について少々考えてみたいと思います。

 

人は何故争うのか

 

 個別の人々の気持ちとしたら「積極的に他人と争いたい」と思っている人は非常に少ないでしょう。しかしながら現実に争いはあちこちで起こります。戦闘現場では悲惨な殺し合いが行われ、軍人、民間人、老若男女を問わず多くの犠牲者が出ます。戦争が始まるときによく聞かれるのは、「戦うのは戦闘員であり、また攻撃目標は軍事施設である」という言葉です。しかしながらいったん戦争が始まれば戦闘員・非戦闘員の区別などなく、誰もが巻き込まれるのが戦争でしょう。現在でも中東とロシア国境で大規模な紛争が勃発し、その様子が連日報道されています。その戦場は特別な場所ではなく、一般の人々が普通に生活をしている街中であり、砲弾に倒れるのは一般市民です。そこここで「私の子供がやられた!家族が死んだ!」などと悲痛な叫びが飛び交っています。では何故、そんな悲しい争いを始めてしまうのでしょうか。争いというのは戦争だけに限らず、社会でも家庭内でも起こることです。兄弟喧嘩、夫婦喧嘩…人が二人集まれば起こってしまうのが争いです。

 冷静なときに諭されるのは「相手の気持ちになりなさい」「自分がやられて嫌なことは他人にするな」。誰もが納得するものなのですが、では自分の子供が殺され、悲しみのどん底に落ちてしまったなら、「自分がやられて嫌なことは他人にするな」と考えれば争いはなくなる筈なのですが、これがそうはならない。人間の道徳心というものは身勝手なもので、自分が傍観者であるときに道徳心は強く働くが、自らが当事者になると復讐心が前にでてしまうという特性があるものです。これが「復讐の連鎖」です。こうなってしまうと人間は冷静な判断力を失い、戦禍は広がってしまいます。

 それでは「争い」が起こる根本には何があるのか。それは「意見の相違」です。人間の究極の幸せは何かと問われればそれは「自分の好きなことがやれること」だと言えるでしょう。しかしながら集団の中で生活しているとなかなかそれは実現しないでしょう。人はそれぞれに価値観や考え方が異なりますから、自分が何かしようとすると、それを理解し、協力してくれる人が現れる反面、必ずと言って良い程違う意見を持った人が現れ、「意見の違い」が生じます。相互の理解が深い筈の家族、兄弟や夫婦ですら「意見の違い」によって争いが生じてしまいます。ましてや生存権がかかる問題や宗教がらみの問題では尚更「相手の気持ちになる」ことは難しくなってくるでしょう。

 「争い」は、生き残るための生存本能とも言えるかもしれません。生物には生存の三大欲があり、これは「食欲、繁殖欲、睡眠欲」とされています。これらの生存に直結した欲によって争いは起こされる場合も多いのです。殺戮を犯すのは何も人間だけとは限りません。動物もおなかが減ると他の動物を殺して食べます。極端に言えば、草食動物であっても生命としての植物を殺して食べてしまっています。これが食欲による行動。群れのなかの繁殖相手を巡っての争いもあります。休息を取り、繁殖をするための「縄張り争い」も起こります。ここまでは人間も動物も大して変わりはしませんが、動物は食欲が満たされればそれ以上の捕食はしないとされています。ましてや「狩り」はしても「戦争」はあまり聞いたことがありません。人間と動物の大きな違いは、人間の「争い」の場合には、三大欲から発展した、経済問題や政治問題、宗教などの思想問題が複雑に絡んできます。これが生存本能よりも厄介な「社会的洗脳」若しくは「生活環境」の問題なのです。例えば生まれてから戦争しかしらない社会に育った人間は戦う以外のことをほとんど知りません。ですから問題が生じれば、話し合いではなく「力ずく」で解決しようとするでしょう。また宗教的な教育に見られるように「自分は(自分の信じることが)絶対に正しい」と考える人間は、他人の意見を駆逐しようとします。この「意見の違い」「生存権」が争いの根本にあるといえるでしょう。


争いは避けることができるのか


 実は可能です。と言ってもそれは遠い進化した第九段階の人類での話です。しかしそれをヒントに学ぶことは出来るでしょう。

 第九段階までの進化を遂げた人類はすでに肉体を持ちません。「光の人類」と呼ばれる所以はそこにあるのですが、

その進化段階では他人を殺すという行為は、自分のエネルギーと相手のエネルギーをショートさせ、双方共に消滅するという方法しかありません。すなわち「他人を殺すということは、自分も死ぬ!」ということになります。このような生命の特性を持っていればおのずから殺人という行為は無くなってゆくのです。もちろん第九段階にも「意見の相違」は歴然とあります。しかしながら、それが「争い」とはならないのです。何故なのでしょうか。「意見の相違」は一つの「個性」と捉えられているからです。「あなたはそういう意見ですね。私はこういう意見です。意見が食い違ったことはわかりました。ではどうしましょう?」簡単に言えばこのような思考パターンになっています。常にどんな問題が生じても「相手を抹殺する」という考え方がまったくないのです。まさに神のような存在ですね。これが第九段階の特性ですが、この部分を学ぶ必要があります。

 今、私たち地球人類が学ばなくてはならないことは「コミュニケーション」です。というよりも、それ以前の「コミュニケーションを取ろうとする気持ち」であると云えるでしょう。そんな根本的なことすら出来ていないという意識が必要です。そして最も重要な事柄が「相手を理解しようとする気持ち」です。

 それではこのような考え方の中で、個人が出来ることは何でしょうか。それは「会話」です。勿論言語の違いがありますからまずはそこから乗り越えなくてはなりませんが、時間をかけて相互に話すこと。そうすると表情や身体の動き、くせなどが理解でき、そこから雰囲気も読み取れるようになります。そして会話をする中で最も基礎なのが「聞く」ことです。「話す」こともコミュニケーションでは重要ですが、まずは「聞き上手」になりましょう。言語が多少おぼつかなくても、聞く姿勢があれば雰囲気はつかめてきます。そして単に「聞く」ことから「聞く力」にするためには、その根本に「相手を理解しようという思い」を持つことが重要です。そうすると自然に的を射た「話」が出来るようになり、一層コミュニケーションが取りやすくなるのです。一人ひとりのこの小さな変化が大きな流れになります。もしかすると、この個人の「聞く力」が戦争を地上から無くすかもしれません。これが人間の「力」です。

 「聞く力」がついてくると「話す力」がつき、理解者が増え、究極には「自分のやりたいことが出来る」という幸せの実現にもにつながって行きます。このテジタルな時代に、コミュニケーションを深める「時間」が必要になっていることを宇宙の知恵は教えています。