時空を超えて!オーラの過去・現在・未来

 人々の心が乱れてきているようです。陰湿ないじめによる子供達の自殺は後を絶たず、しごく短絡的な動機により簡単に人を殺してしまいます。遊ぶお金がなくなったから弱いであろう女子学生を殺してしまった。数千円と引き換えになくなってしまった命。友人が気に食わなくなったので、見知らぬ人にSNSで声をかけたら集まってきて、楽しみながら暴行したら死んでしまった。誰でもいいから殺したかった…枚挙にいとまがありません。わかりにくい事件は何も暴走した若者だけとは限りません。現代のベートーベンとメディア各社が取り上げた作曲家の詐欺。リケ女の星と騒がれた研究者の信用失墜。私自身が扱う犯罪者の動機も含め、どれを見ても短絡的であり、非常に薄っぺらいプライドからくる場合が多いと感じざるを得ません。

 

心の乱れ、その原因は

 

 人身が乱れるというのはどの時代にもあったことでしょう。芥川龍之介の「羅生門」。平安時代の京の都を舞台にしたこの作品のテーマは、「追い詰められた人間の必要悪」です。死体から髪を抜き取り売ろうとする老婆、その老婆を叱責するが、老婆の「生きるためにしょうがない」という理屈に、最後には老婆を殺し「私も生きるためにしょうがないのだ」と言い残し身包みはいで行った下人。究極のときに人間の心はどうなるかを提起しました。この時代、短い期間に災害が集中しています。1177年から1185年の8年間だけでも安元の大火事(京都)、養和の大飢饉(西日本中心)、元暦大地震(近畿、京都)と大災害が続いています。

 近い歴史の中では「戦後」の一時期があげられます。まだまだ日本にも戦争を直接経験した人達が大勢いらっしゃいます。その方々のお話を聞くと、戦争中の人間の行動は狂気であり、人間は一度暴走を始めるとなかなかそれを止めることは出来ないといいます。それが集団的狂気であったなら尚更でしょう。未来創学アカデミー初代理事長も「神風特攻隊」の生き残りであり、私も当時の状況をよく聞かせていただきました。また戦後の一時期の日本は人身が乱れた典型的な時期であったともいわれます。それは当然でしょう。日本人としてのプライドも文化も、そして生活さえも戦争に奪われ、明日の生活も見えない状態であったことは容易に想像できます。そんな明日の生活さえも見えない究極の社会の中で、人身乱れるのは当然かもしれません。しかし、人間はそのような状況であっても決して滅びることなく再び復興し、繁栄しています。そこには世代をつなぐ何かがあります。

 

平和な日本の「疎外感」

 

 今、平和を享受する日本で人々の心が乱れているのは何故なのでしょう。「衣食足りて、礼節を知る」という言葉があります。しかしながらどうもこの言葉は真理ではなかったようです。世界でも類のない戦後復興と高度成長を成し遂げた日本において、それが実証されているのかもしれません。私がよくお話しする「衣食足りて、欲望が増す」です。冗談のような言葉ですが、残念ながら真実のようです。目に見える周りの人が皆一様に苦労を背負っているときには一致協力して助け合いもしますし、「皆が同じだから」という真理が働いて、少なくとも社会における「疎外感」は少ないでしょう。そして目の前にある同じような困難を皆で克服する希望が湧いてきます。実はこのような「共通の困難に立ち向かう」という目標と「自分は一人ではない」という一体感が人間には重要です。現代日本の病巣はここにあります。

 就活でよく「何十社を受けても内定がもらえない。何か、人格を否定されているようだ」ということがあります。人間は目の前に目標があれば、それを修正も改善も出来ますが、自分の問題点を指摘されるならまだしも、普通は理由を開示されることもなく、「お祈りメール」が送られてくるのですから精神的にもまいってしまうのでしょう。そして企業でも、努力をすれば報われるという状態よりも、如何にも博打のように相場を張って金融取引を行い、考えられない金額を稼ぎ出す人々が目立ってくる社会。豊かになればなるほど貧富の差は精神的な負担となってきます。社会が豊かになれば、皆が豊かになるかといえばそんなことはありません。ごく一部の人を除き「衣食足りて、欲望が増す」という方向に進むのが本能なのかもしれません。

 反面、「困っているときはお互い様」という気持ちも働くのが人間です。自分も困っているのに他の人を助けようとする気持ち。3年前の東日本大震災。生きるか死ぬかの大災害を目の前にしても日本人は世界中の人々が驚くほどの秩序と冷静さを保ちました。人間は愚かである反面、素晴らしい面も持ち合わせているという証明となりました。

 

「気持ち」この、オーラの働きとは

 

 これらの相反する行動を支える根本にあるのが「気持ち」です。この言葉は「気の持ちよう」ということなのですが、まさにこの「気持ち」はオーラの強さを示します。人間は基本的に言語によりコミュニケーションを図りますが、言葉が通じなくても身振り手ぶりや表情、雰囲気で「気持ち」が通じることも多々あります。これこそテレパシーの原型なのですが、これには「思いをのせる」必要があります。何かしてあげたい、役に立ちたい等々、強く思うことによって相手に言葉では伝えられない「何か」を伝えることが出来るのです。これが「オーラの伝達力」です。ですからオーラの善し悪しは「そこに乗せる気持ち」の違いで決まるといえるでしょう。

 人と争いたくはない、人生を楽しく幸せに過ごしたい。万人に共通する願いだと思いますし、そうであって欲しいと思います。多くの宗教の根本に「現在の生は仮の姿で来世に至るための修行の場」という考え方があります。宇宙的に見るとそうではなく、私たちのオーラは転生を繰り返し、過去に生きた魂を引き継ぎ、そして自分の肉体が消滅した後、オーラは別の人に転生し、影響を与えます。ですから、現実に生きている「今」は仮の姿でも、神に至る修行の場でもありません。自分に合体している過去に生きた魂を救うのも、苦しめるのも「今、生きている」あなたであり、肉体を無くしたあなたの魂は、合体した相手に良い影響をも悪い影響をも与え、反面あなたの魂が救われるのも苦しめられるのも「その時」を生きる合体相手次第となります。これが世代をつなぐ大切な仕組みです。

 オーラにはこのように壮大な時空を超えたつながりがあります。ですから「今」を生きること、今をどのように生きるかが如何に重要かをご理解いただけることでしょう。人生に無駄はありません。無駄も必要なものなのです。すべては心のあり方次第。「気の持ちよう」次第で変えられるということです。